『聖山王』の死 ―ハイリゲンベルク教授の死を悼む―

バージニア大学生物学部    

川崎 雅司    

「比較生理生化学」 vol 12:p.196 (1995) より    

   

 

1994年9月8日夕刻、 US Airのシカゴ発パームビーチ行きボーイング737型機がピッツバーグ近郊を飛行中、突然コントロールを失ない、6000フィートの上空から墜落、乗客乗員合わせて132人全員が即死した。事故の原因は尾翼の方向舵の故障によるものと推定されている。亡くなった132人の中に、カリフォルニア大学サンディエゴ校スクリプス海洋学研究所のWalter Heiligenberg教授が居た。ウィーンでの学会に出席した帰り道、シカゴ乗り換えでピッツバーグ大学へ講演に向かう途中の、あまりにも突然の、あまりにも悲惨な恩師の訃報に、私は言葉を失なった。1986年からの4年間は彼のポスドクとして、またその後も、研究の上でも個人的にも密接にかかわりのあった者として、ここに彼の生涯を紹介し、心から哀悼の意を表したい。

Walter Heiligenbergは、1938年ベルリン生まれ。 早くから科学と音楽の両方に才能を表わし、高等教育にすすむ頃になっても、ピアノを練習するかたわら顕微鏡下のプランクトン世界に熱中し、将来の進路をきめかねていた。そんな彼に決定的な影響を与えたのが、Konrad Lorenzであった。Buldernのローレンツの研究室を訪れた彼は、この時から動物行動学の虜になってしまった。Walterによれば、この偉大な科学者が水槽の魚のために丁寧にイトミミズを刻む姿を見た瞬間に、この世界に「刷り込まれて」しまったのだという。弱冠15才であった。その後彼はMunster大学で動物学、植物学、物理学、化学を学んだ後、Munchen大学に編入、動物学、理論物理学、数学を学び、1960年に、 Seewiesenのマックスプランク行動生理学研究所に移っていたローレンツのもとで博士研究を始めた。彼は、「動機づけ」を行動を発現させることなく定量化する見事な方法をシクリッドフィッシュで開発し、行動を発現しないことが、動機づけを低下させるという結果を得た。これは、ローレンツの有名な「動機づけの水洗トイレモデル」に真っ向から対立するもので、のちにローレンツは自説の修正を余儀なくされた。学位取得後は、Mittelstaedtの助手となり、コオロギの音声コミュニケーションなどの仕事もした。

1972年, Ted Bullockの招聘により、ドイツを離れ、ポスドクとしてカリフォルニア大学サンディエゴ校にやってきた彼は、ここで電気魚というすばらしいモデルに出会い、爆発的な成功をおさめることになる。 翌年には助教授に、4年後には教授に昇格し、ほんの数ヵ月のつもりの(少なくとも家族はそう思っていた)アメリカ滞在は都合二十数年に及んだ。

彼は、電気魚の混信回避行動に飛びついた。発電周波数の近い2匹の電気魚が出会ったときに、互いに周波数を変化させ電気定位のシステムの混信を回避するこの行動は、神経生理の可能な不動化標本で、動機づけに左右されることなく安定して発現させることができ、しかもこれをオシロスコープやコンピューターでこころゆくまで観察、定量化できる。この行動は、行動を定量化することの重要性とむずかしさを知り尽くしていたWalterを虜にした。彼はまず、混信回避行動の発現のために、電気魚の神経系が使用するアルゴリズムを徹底的に解析した。この結果は、数年後ニューロエソロジーの金字塔ともいえる一連の論文として発表された。混信回避行動に必要な鍵刺激は、自己の発電と他魚の発電の混合信号の中にかくされている2つの物理パラメータ、すなわち振幅と位相の時間パターンである事を示した。さらに、感覚系のどの部分も曖昧さなしに鍵刺激をコードする事はできず、感覚系全体のポピュレーションコーディングが起こっている事を、大変に巧妙な行動実験によって示した。この考え方を自らneuronal democracy説と名付け、これが一躍有名になった。その後の十数年で、このかなり複雑なアルゴリズムの神経機構を、感覚系・運動系と両者の統合のすべての面で見事に説明した。これだけ複雑な情報処理の神経機構が生理学的に同定された例はあまりない。事故にあう2年前にモノグラフが出版されたことは、残されたものにとって幸いであった (文献1)。彼の研究の特徴は、電気魚の行動研究を、伝統的な生物学あるいは動物学の範囲にとらわれず、伝統を基盤にしながらさらに幅広く、奥深くおしすすめたことにある。研究室は、あらゆる種類の電気魚でみたされ、学生達は、いつでも「比較」的に物を考えることが奨励された。技術面でも柔軟で、若い頃に学んだものにとどまらずどんどん新しい方法をとりいれ、神経生理学、神経解剖学、神経薬理学、さらに最近では、分子進化学までマスターしていた。

私が、ポスドクとして彼の研究室で研究を共にする幸運を得たのは、1986年の夏であった。

彼の研究室で働くようになったその日から、私は彼の研究に対するすさまじい情熱とエネルギーに圧倒され続けた。 朝は誰よりも早く研究室にやってきて、自ら「リトル・アマゾン」と名付けた水槽室に飛び込み、繁殖用の水槽を入念に, なおかつ猛烈なスピードで手入れした。 水質を調節したりフィルターを洗ったり、すべて手仕事である。 前夜に産卵された卵を見つけると日本語で、「たまごー」と叫び、喜びを全身で表現した。研究室のメンバーがやってくる頃には、水槽室の仕事を終え、Journal of Comparative Physiologyのエディターとしての仕事を、これもまたすばらしい効率でこなした。 投稿されてきた原稿の封をきってからレフェリーに電話で了解を取り、発送に至るまで数分しかかからないという手際のよさである。 エディターという仕事をおろそかにしていた訳では決してない。 一刻も早くその日の実験を始めたい一心なのである。 エディターの仕事や大学関係の雑務、それにグラントや論文の執筆などの山のような仕事を、持ち前の集中力でブルドーザーのように片付け、必ず午前中には、ポスドクに加わり自ら実験を始めた。 Walterは、自らの手で実験することを無上の喜びとした。 私は彼とチームをくみ、彼と共に実験を繰り返すうちに、彼の人生の中心は、自然の謎に触れそれを解き明かして行くことにあることがよくわかった。彼が最も喜々としていた瞬間は、細胞内記録の電極を進めている時か、顕微鏡をのぞいている時であった。手作りの器具やプログラムはどれもちょっとした工夫があり巧妙であったが、けっして懲りすぎる事はなかった。図を作るとか論文を書くといった事も、彼にとってはあくまで二次的なことであった。データにはとても忠実で、それが自分の予想に合致していてもいなくても、子供のように喜び、興奮し、それを大切にした。説明できないデータがでると、謎ときに熱中するあまり、裸の上半身から湯気がたちのぼった。ひとたび実験をはじめると、文字通り一瞬の休みもなく集中した。昼食は決まって自分で作ったサンドイッチ。これは、片手で食べながら実験が続行できるからである。午後4時になると電気魚に餌をやる。ローレンツに「刷り込まれ」た方法で、イトミミズをそれぞれの電気魚のサイズにあわせて丹念にきざみ与えた。稚魚には、ビルの屋上で自分で養殖しているプランクトンを、プランクトンネットで集め、稚魚のサイズにあわせて、メッシュでこし分け与えた。 Walterは、他の誰より猛烈に(しかも心から楽しそうに!)働きながら、この強力なエネルギーを研究室のメンバーに押しつけたり、同じように働くことを強要したりは決してしなかった。そうではなくて、彼の無言の手本が自然に研究室のメンバーに良い影響を与えていった。学生達もポスドクも実によく働いた。休日や早朝・深夜の駐車場には、彼の研究室のメンバーの車だけが数台、とまっているというのが常であった。 Walterの重要な功績のひとつに、多くの優秀な学生と共同研究者を育てた事が挙げられる。彼のサイエンスが彼のもとに優秀な人材を集めたことは勿論だが、それにもまして、彼の類いまれなる明るくかつまめな性格によるところが大きい。どんなに多忙でも決して不機嫌になることがない。常に冗談を言い、いたずらをして人を笑わせ、学生やポスドクにお茶をいれたりチョコレートを配って歩いた。底抜けの楽天家で、実験がひどく行き詰まっても暗い顔ひとつせず、"Let's try it again" をくりかえした。これが、成功の秘訣であり研究室全体の活力になっていた事は、勿論である。研究室のメンバーでなくとも、世界各地の電気魚の研究者が、新しいデータが出ると真っ先にWalterに伝えた。彼がそれを自分のことのように喜んでくれるのを皆知っていたからである。彼こそが、電気魚のニューロエソロジスト達の集団を、家族のような暖かいものに育てたまさにそのひとだった。彼は、次期の国際ニューロエソロジー学会の会長に予定されていたが、これが実現しなかったのは、大変残念である。ドイツ人でありながら、気さくで飾らず、形式主義や権威主義を心底嫌った。 ドイツ学会の最高峰レオポルディア、American Academy of Arts and Sciences等、多くの栄誉に輝いたが、研究室のメンバーにはおろか、夫人にすら一切話さなかった。事故後はじめて、書斎の本棚から、郵送されてきた筒に入ったままの数々の賞状が娘さんによって発見された。

Walterは良き家庭人でもあった。夕方おそくなると、「科学にとって、かみさんを上機嫌にしておくことが最も大切」と言い残して、あわてて帰宅した。家庭でもラボ同様、植物に水をやり、皿洗いをし、とにかくまめに働いた。しかし、科学者としての成功とはうらはらに、家庭生活は平坦ではなかった。ピアニストであった、ハンガリー人のZsuzsa夫人との間に3人の子供をもうけたが、必ずしも順調な子育てであった訳ではなかったし、しかも夫人は1991年ガンでなくなった。1993年には、オーストラリア人でバイエルン放送交響楽団のヴァイオリニストである、Wendy Thompsonと再婚したが、彼女との間にもうけた女児Claraは、飛行機事故の18日後に生まれるという悲劇になってしまった。

彼は、異国であるアメリカで成功し、夫人は二人とも外国人ということからもわかるように、異文化というものをよく理解し、インターナショナリズムを愛した。ドイツ語、英語、ハンガリー語に堪能なのは勿論、日本語や日本の文化にもとても関心が高かった。毎晩寝る前に、漢字の練習をするのが日課で、老後は、日本で坊さんになりたいとなかば本気で言っていた。彼の号「聖山王」は、Walter Heiligenbergの日本語訳である。大の日本食好きで、朝食は、味噌汁に冷や奴、薄切りキュウリにフリカケをまぶして三杯酢をかけたサラダ、夕食には、毎晩欠かさず自分で寿司飯を用意して、ハマチとマグロで寿司を握った。

事故の3週間後にメモリアルが、そして1995年1月には、ハイリゲンベルグ記念のシンポジウムが、それぞれラホヤでひらかれた。何百人という参加者の誰もが、なんという人をなくしてしまったのだろうという悔しさと寂しさに打ちひしがれた。

文献 1)Heiligenberg, W. (1991) Neural Nets in Electric Fish, MIT Press